自己紹介

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米カリフォルニア州オレンジ郡を拠点に、英語と日本語の両方で記事を書く数少ないジャーナリスト。 アメリカの現地新聞社で、政治や経済、司法、スポーツなどあらゆる分野の記事を取材・執筆。 2012年には、住宅バブル崩壊が南カリフォルニア住民に与えた影響を調査した記事で、カリフォルニア新聞経営者協会の経済報道賞を受賞。2017年には、ディズニーや開発業者が行った政治献金を明るみに出した記事で、オレンジ郡記者団協会の調査報道賞を受賞。 大谷翔平の大リーグ移籍後は、米メディアで唯一の日本人番記者を務める。

2011年11月28日

「マネーボール」GMの経営哲学

日本でも上映が始まった映画「マネーボール」。ブラッド・ピットが演じたオークランド・アスレチックスのゼネラルマネージャー(GM))ビリー・ビーンにインタビューする機会があった。


ブラピが演じたということで、ビーンは記者から映画の質問ばかり受けるようになったという。ブラピがビーンの自宅にお忍びでやってきた時は、近所中がブラピ目撃情報でもちきりになったのだそうだ。ビーンいわく、ブラピはとても頭の切れる、謙虚な人らしい。

ファンとのサイン会や写真撮影に笑顔で応じるビリー・ビーン
ビーンは資金難に苦しんでいたアスレチックスを、何度もプレーオフに導いたことで評価を得た。データと統計学を駆使して、過小評価されている選手や能力を発掘し、スカウトや監督といった元選手たちの勘や経験に頼りがちな野球界に新風を巻き起こした。昨年のオフに、フリーエージェントの松井選手を獲得したのも彼である。

映画に描かれているように、短気だと聞いていたので、少し緊張してインタビューに望んだのだが、会ってみると驚くほど物腰が柔らかく、質問にも飾ることなく丁寧に応えてくれた。

よく誤解されるのだが、ビーンの功績は、データや統計を用いる理論を発案したことではない。セイバーメトリクスと呼ばれる理論は、1970年代から存在し、統計好きの野球ファンの間ではよく知られていたのだが、保守的なスポーツ界では敬遠されがちだった。

ビーンが優れているのは、自分が元選手であるのにも関わらず、野球界の「常識」やムラ文化に縛られない発想を採用し、それを組織内で徹底させた経営手腕である。

ビーンとアスレチックスは、既存のアイデアを用いてマーケットにイノベーションをもたらしたという点で、故スティーブ・ジョブズやアップルに似ている。(アスレチックスがシリコンバレーのそばにあるというのも興味深い)

どうしてチームの建て直しがうまくいったと思うかと聞くと、ビーンは必要に迫られての結果だと述べた。ヤンキースやレッドソックスのような資金力のあるチームと同じような選手を狙っていては、アスレチックスは絶対に勝てない。大企業と同じ製品やサービスを提供しようとしていたのでは、中小企業がつぶれてしまうのと一緒である。

もしアスレチックが新しいやり方を試して負けても、失うものはない。期待通りの結果で終わるだけ。勝てば儲け物である。「ある意味、何にでも挑戦できるという状況は強み」だとビーンはいう。

運良く当時のチームには、自由な発想ができる若いスタッフが何人もいたので、彼らにチャンスを与えたのだそうだ。プロ野球経験のない、大学をでたばかりの無名の若者の考えが、スカウトよりも正しいと信じる判断力と決断力。自身は数学が苦手だというビーンは、「そのためにボクはすごく頭のいい人たちを雇うんだ。ボクはそれを信じるだけさ」と笑顔で語った。

今のスポーツ界は、10年前だったらゴールドマンサックスに就職していたであろう、アイビーリーグやビジネススクール出身の人材を採用するようになった。プロアスリートではない優秀な若者が、スポーツに進出するチャンスなのだとビーンは言う。

映画の原作となった同タイトルの本が出版されたのが2003年。もうセイバーメトリクスを取り入れていないメジャーのチームはおそらくないだろう。みんなが同じような評価システムを取り入れている現在の状況では、以前のように資金力のないチームが長期に渡って勝ち続けるのはメジャーリーグでは難しくなっているとビーンは分析する。既に彼は、統計分析が野球ほど進んでいないサッカーに目をつけている。

「マネー・ボール」を書いた著名作家のマイケル・ルイスは、アスレチックスのオフィスに突然やってきて、ビーンたちが何をしているのか知っているから、チームに帯同させろと言ったそうだ。

オークランドの近くに住むルイスがアスレチックスのことを聞きつけなかったら、ビーンが彼の取材を拒否していたら、もしくはルイスがチームに張り付いていた2002年に、アスレチックスがプレーオフに進出していなかったら、果たして野球界はどうなっていたのだろうか。

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2011年11月26日

なぜ子どもを留学させるべきか

(以下はボクが書いた新聞用コラムの訳)

ボクは未だに、20年前に初めてアメリカで英語を話した時のことを覚えている。

ワシントンD.C.に到着したその日、ボクは風邪を引いていたため、ホテルのベッドに寝て両親や弟たちが夕食から戻ってくるのを待っていた。すると突然ハウスキーパーが部屋に入ってきて、ボクに話しかけてきた。

全く彼女の言いたいことが理解できないボクは、恐怖におののき、「ノー・マザー、ノー・マザー!」と知っている単語を並べて、彼女が出て行くまでわめき続けた。

その時ボクは小学三年生だった。父がアメリカの会社に出向になり、家族全員で日本からワシントンの郊外に引っ越したのだ。海外に住み、現地の公立高校に通った当時の二年間は、ボクの人生に最も大きな影響を与えた。英語やアメリカ文化を学べたことも確かに大きいが、振り返ってみると得られたものは単なる知識にとどまらない。

出だしは楽ではなかった。

学校初日、父はボクと弟を送り届けて、すぐに去ってしまった。教室では担任の先生とクラスメートが、理解不能な言語でやり取りをしている。ボクは静かに席に座り、何度も引き出しをチェックするふりをしながら、隠れて涙をぬぐった。

昼にカフェテリアに行くと、当時一年生だった弟がボクを見つけ、「兄ちゃん!」と、今でも忘れられない笑顔を浮かべ、日本語で叫んできた。自分の情けなさが悔しかった。

到底、国語や社会の講義を理解できるはずもないので、当初は英語を母国語としない生徒のためのESLというクラスを主に受講していた。ある日、いつもより早くホームルームに戻ると、生徒たちがスペリングビーのコンテスト(英単語の綴り当て大会)をやっていた。何を思ったか、担任の先生がボクも加わるようにと促してくる。

スペリングビーが何なのかすら分からないボクはパニックに陥り、「やだよー、やだよー」と必死に拒否し、しまいにはクラスの前で泣き始めた。

最初に通った学校には他にも多くの日本人がいたので、彼らとつるむことが多かった。それを面白く思わないアメリカ人の子どもは、英語を話せないボクをからかい、ボクが休み時間にバスケットボールをしたくても、仲間に入れてくれなかった。

運良く家族が引っ越すことになって、ボクも6ヶ月で別の小学校に転校したのだが、そこではスポーツのおかげでいじめを乗り越えることができた。

野茂選手がメジャーリーグに挑戦する前からトルネード投法を駆使していたボクは、変なフォームで早い球を投げるひょろひょろの小学生がいるぞと、地元のリトルリーグではちょっとした話題になった。日本ではやったことのなかったバスケットボールも、ドッジボールで培ったボールさばきが功を奏し、地元のオールスターチームに選ばれた。アジア人に対するステレオタイプに拍車をかけるがごとく、算数ゲームでは他を圧倒した。

すると次第に、クラスメートたちの尊敬を得られるようになり、向こうからボクに近づいてくるようになった。新しい学校には日本人があまりいなかったので、自然とアメリカ人の生徒と遊ぶようになった。ボクの臆病な心は打ち砕かれることになったものの、二人の金髪少女にも恋をした。

人は逆境にぶつかると学習が早いもので、一年が経つとESLを卒業することができた。

父の任期が終わる頃には、日本に帰りたくないと親にせがむほど、アメリカでの生活に順応していた。アメリカの自由と3ヶ月の夏休みが好きだったことに加え、日本に再適応できるかどうか不安だったこともある。

日本に帰国した後も、いつかアメリカの大学に通いたいと夢を抱くようになった。ワシントンでの経験が、外には大きな世界が広がっていることを教えてくれ、自信と適応力を与えてくれた。泣き虫で甘えん坊だった自分を、いくらかは冒険家にしてくれたように思う。

弟、近所の友だちと下校する様子
そして無意識のうちに、我々が当たり前のこととして受け入れている、従来の知識や価値観を疑う力を身につけた。

アメリカに比べると、日本の教育は規律と画一性を重んじる。中学生や高校生は制服を着用し、少年野球や高校野球では、選手が丸刈りを命じられる。ボクの小学校では、ランドセルやロッカーの整理にも成績がつけられた。

外の世界に踏み出して異文化に身を投げ込むと、常識だと思っていたことが普遍的ではないことに気がつくようになる。多様性に寛容になり、自分だけが正しいと決めつけるのではなく、違いを理解しようとするようになるのだ。

子どもの頃に留学したことで、ボクは異文化を学ぶだけでなく、自分自身についても理解を深めることができた。その機会を与えてくれた両親に、ボクは感謝してもしきれない。

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2011年11月25日

感謝と優しさ

一年前の感謝祭は公選弁護士デーブの家で過ごしたと書いたが、今年はデーブの同僚フィルが夕食会に招待してくれた。二年近い付き合いになる裁判所の人たちは、日本から一人でやってきているボクを哀れんで優しくしてくれる。

フィルは、お金も地位もない弱者の権利を守ることに身を注ぐ、公選弁護士の鏡のような存在。保守的なハイデザートでは貴重な、筋金入りのリベラルでもある。

サンバーナディーノ郡公選弁護士のフィル
フィルの娘さん二人の家族もやってきて、フィルが一週間かけて準備したという感謝祭料理を堪能した。アメリカ人は家族の集まりに他人を招くことをいとわない。こっちに住むようになってから、感謝祭やクリスマスになると、必ず誰かが家族パーティーに呼んでくれる。

裁判所に勤めるある女性は、祖父がいつも感謝祭のパーティーにホームレスを招くのだそうだ。どうしておじいさんはそんなことをするのかと聞くと、「いいことだからと教えられてきたからじゃないかな」という。

ディナーテーブルで食事をしながら、感謝祭にちなんで、一人ずつ何に感謝をするのかを発表した。ボクは、「フィルがこんな素敵な夕食に招いてくれて、みなさんにも出会うことができたことに感謝します」と話した。

ボクも、優しさや自分の幸せを見知らぬ他人に分け与えられるような寛容さを持っていたい。


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