自己紹介

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米カリフォルニア州オレンジ郡を拠点に、英語と日本語の両方で記事を書く数少ないジャーナリスト。 アメリカの現地新聞社で、政治や経済、司法、スポーツなどあらゆる分野の記事を取材・執筆。 2012年には、住宅バブル崩壊が南カリフォルニア住民に与えた影響を調査した記事で、カリフォルニア新聞経営者協会の経済報道賞を受賞。2017年には、ディズニーや開発業者が行った政治献金を明るみに出した記事で、オレンジ郡記者団協会の調査報道賞を受賞。 大谷翔平の大リーグ移籍後は、米メディアで唯一の日本人番記者を務める。

2012年5月19日

メヒコバンザイ


冗談ではなく、ボクが米国留学を決めた理由の一つがメキシコ料理である。小学生の時に食べた、タコベルのタコスとファヒータ(どちらも厳密にはメキシコ料理ではないが)の味が忘れられず、いつかまた腹一杯、好きな時に食べたいと、小さな野心を抱いていた。

テネシー州での大学院生活では、一週間に一度はタコベルのタコスを10個くらい買って、一人で平らげていた。テネシーでは純粋なメキシコ料理ではなく、テクス・メクスというメキシコ風のアメリカ料理を食べることが多かったが、メキシコ系移民の多いカリフォルニア州に来てからは、本場の料理を堪能している。

恥ずかしながら、ヒスパニックが人口の半分を占めるビクタービルに4年ほど住んでも、スペイン語はほぼゼロのままだが、そんなことは気にせず、英語の話せない移民の集う小さなレストランや、近所のメキシコ系スーパーに通い詰めている。買い物くらいなら、身振り手振りで何とかなるものだし、得体の知れない食べ物を指差して注文するのも、それはそれで楽しい。お気に入りは、スーパーに置いてあるセビチェという魚介類のマリネで、しょっぱさと酸っぱさのバランスが癖になり、トルティーヤやチップスだけでなく、ご飯にも合う。

近所のメキシコ系スーパー

セビチェ

あまり知られていないが、メキシコの菓子パンやケーキには、日本で売られているのに近いものが結構ある。初めてメキシコ系スーパーに行った時、メロンパンらしきものが並んでいるのを見て感激した。パンが少しパサついているのは、文化の差だと思えば何のことはない。アメリカのスーパーで売っている大味なケーキがだめという人は、ぜひメキシコ系スーパーを試してみるべきだ。

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2012年5月15日

Facebookが切り開く、新コミュニケーション


今日は、Facebookの創始者マーク・ザッカーバーグの28歳の誕生日。Facebookは、金曜日にナスダック証券取引所に上場する予定で、時価総額は1000億ドル(約8兆円)にも達すると言われ、ザッカーバーグの総資産額は180億ドル(約1.4兆円)ということになる。

ボクは、Facebookができて間もない2004年にアカウントを作ったのだが、つい数年前まで、積極的には利用してこなかった。クラスで仲良くなった学生や、旅先で知り合った人と気軽につながりを保てるのは魅力だったが、いかんせんインターフェースの使い勝手が悪く、シンプルなデザインで日記機能が充実したmixiとは対照的だった。

それでもソーシャルメディアは、最後にはユーザー数がモノを言う。当初は、名門大学の学生のみに限られていたFacebookだが、徐々に門戸が開かれ、今や9億人のユーザーを抱える世界最大のソーシャルメディアとなった。日経ビジネスで身売りが報じられたmixiは、会社とユーザーがプライバシーの保護を意識しすぎた結果、ソーシャルメディアの醍醐味である「人とのつながり」が薄れてしまった。

今やアメリカ人にとって、フェースブックはインターネットそのものになりつつある。子どもから大人まで、パソコンやスマートフォンをつけるなり、まずはFacebookを開く。新聞やテレビではなく、Facebookに流れる記事や動画で話題を追い、家族や友だちの近況も、電話などかけずに、つぶやきや写真の一覧でチェック。友だちが結婚すれば、そこに参加する人たちがスマートフォンで写真を掲載するので、すぐにお祝いの言葉をかけられる。子どもや若い人は、Eメールを使わず、Facebookのメッセージ機能でコミュニケーションをとるようになっている。

他のサイトに行っても、Facebookのアカウントを持っていないと、利用できないサービスが増えてきている。例えば、うちの新聞のホームページでは、記事にコメントを投稿するのに、まずはFacebookにログインしなくてはならない。おかげで、匿名での誹謗中傷コメントは劇的に減った。Facebookのアカウントは、ネット上での身分証明になりつつある。

まだまだ使いづらい点の多いFacebookだが、機能だけ見ればより洗練されているグーグルのGoogle+が追いつけないのは、圧倒的なユーザー数の差があるからだろう。たとえGoogle+が機能を充実させても、Facebookはそれを真似ればいいだけ。長距離走で、周回遅れで走るグーグルの真後ろにくっついて走っているようなものである。

日本人ユーザーが増えてきたFacebookでは、自分の書き込みや写真に対して、アメリカ人と日本人の友だちが、異なる言語でコメントを残すことがある。こっちでの同僚や大学院時代の友人と、日本に住む大学・高校時代の同級生が、一つの場に集まってコミュニケーションをとっている光景は、インターネットのない時代を思い出すと、今でも不思議に感じる。

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2011年12月8日

あれから70年

12月7日と聞いて、何かが思い浮かぶ日本人は少ない。

しかし、アメリカでは、日本にハワイ真珠湾攻撃を受けた日として、第二次世界大戦を経験していない者が大半の現在でも、7月4日(独立記念日)や9月11日(同時多発テロ事件)と並んで特別な意味を持つ。

フランクリン・ルーズベルト大統領は、攻撃の翌日に行った演説の中で、1941年12月7日を「屈辱の日」と呼び、米国民の日本への敵意を煽った。


日米開戦前に行われたルーズベルト大統領の議会演説は、アメリカで最も有名なスピーチの一つである。

ボクがこっちに来てから6年が経つが、これまで日本人として、一度もあからさまな差別を受けたことはない。友だちや退役軍人のおじいさんに、真珠湾攻撃をネタにしたジョークを飛ばされるくらいだろう。

米国民に多大な衝撃を与えた出来事から70周年の今日、日本人のボクが、アメリカで他の人と同じように受け入れられている喜びを噛み締めている。

差別や屈辱を乗り越え、自由と権利を勝ち取った日系人の方々の努力に感謝すると同時に、ジャーナリストとして差別や偏見に立ち向かうことを改めて心に誓った。

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2011年12月4日

米国流結婚式

最近、毎月のように結婚式がある。

先月は従兄弟と親友が結婚するのに合わせて、日本に一時帰国した。祖母は式の間中、ボクのおかげで二人がくっついたと感謝を述べつつ、次はトモヤの番だねと繰り返していた。

そして新年が明けたら、できちゃった婚をする友だちの式に、タキシードを着て付添人として出席する。ハリウッド映画なんかで、新郎と新婦が誓いをする際、横に立っている男女たちがそうである。

ようやく米国ウェディングにも慣れてきて、日本との違いが見えてきた。

こっちの若いカップルは、結婚式用のホームページを作って、式の案内はもちろんのこと、出会いやプロポーズの秘話なんかも載せる。10月に式を挙げた同僚のブルックは、ウェブサイトではなく、新聞を刷って、式の前に招待客に送っていた。二人の結婚までのストーリーを同僚記者が取材して記事にし、新郎と新婦がお互いの人物紹介記事を書く。広告やクロスワードパズルまで取り入れる凝りようだ。



贈り物には、小切手を渡すか、カップルがあらかじめ選んでおいた欲しいものリスト(registryという)から注文するのが一般的。貧乏記者には助かることに、日本のお祝儀に比べると額は少ない。新郎・新婦との関係などにもよるが、友だちなら100ドルくらいが一般的。

式は日本に比べると、もう少しバラエティーがある。フォーマルな式を好む人もいれば、形式にとらわれないウェディングを望むカップルも多い。大学院時代のルームメイトは、大学フットボールチームのテーマに沿った演出を散りばめていた。

参加者の服装も思い思いで、中には普段着と変わらない格好でやってくる人もいる。ブルックの結婚式では、新郎と男性の付き添い人たちが、白のタキシードにお揃いのサンダルをはいて結婚の誓いを行った。


ただし、どの式にもダンスはつきもので、ボクは当初はひるんでいたものの、最近では羞恥心も吹き飛び、周りの苦笑を買いながらも硬い腰を奇妙にくねらせ、ダンサーたちの輪に入っていくようになった。


細かな習慣の違いはあれど、新郎や新婦の一生忘れられないような式にしたいという気持ちは、どの国でも変わらない。

学生ローンに苦しむブルックは、少しでも安くあげようと、業者にはいっさい頼まず、一年をかけて手作りの結婚式を準備した。食事やカメラマン、DJなどは、友だちや知り合いに頼んで回り、花やその他のデコレーションはほとんど自分たちで作ったという。式が迫ってきたある日、緊張と準備からくるストレスで、ブルックが仕事中に涙を流す場面も。その苦労を知る者としては、式でことさら感動してしまった。

ちなみにボクは、男性版のブーケトスである、ガータートスでは今のところ二連勝中である。若い頃にバスケで培ったリバウンド力と、飢えたオオカミのような集中力を発揮している。にも関わらず、その効果は全く現れていない。

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2011年11月28日

「マネーボール」GMの経営哲学

日本でも上映が始まった映画「マネーボール」。ブラッド・ピットが演じたオークランド・アスレチックスのゼネラルマネージャー(GM))ビリー・ビーンにインタビューする機会があった。


ブラピが演じたということで、ビーンは記者から映画の質問ばかり受けるようになったという。ブラピがビーンの自宅にお忍びでやってきた時は、近所中がブラピ目撃情報でもちきりになったのだそうだ。ビーンいわく、ブラピはとても頭の切れる、謙虚な人らしい。

ファンとのサイン会や写真撮影に笑顔で応じるビリー・ビーン
ビーンは資金難に苦しんでいたアスレチックスを、何度もプレーオフに導いたことで評価を得た。データと統計学を駆使して、過小評価されている選手や能力を発掘し、スカウトや監督といった元選手たちの勘や経験に頼りがちな野球界に新風を巻き起こした。昨年のオフに、フリーエージェントの松井選手を獲得したのも彼である。

映画に描かれているように、短気だと聞いていたので、少し緊張してインタビューに望んだのだが、会ってみると驚くほど物腰が柔らかく、質問にも飾ることなく丁寧に応えてくれた。

よく誤解されるのだが、ビーンの功績は、データや統計を用いる理論を発案したことではない。セイバーメトリクスと呼ばれる理論は、1970年代から存在し、統計好きの野球ファンの間ではよく知られていたのだが、保守的なスポーツ界では敬遠されがちだった。

ビーンが優れているのは、自分が元選手であるのにも関わらず、野球界の「常識」やムラ文化に縛られない発想を採用し、それを組織内で徹底させた経営手腕である。

ビーンとアスレチックスは、既存のアイデアを用いてマーケットにイノベーションをもたらしたという点で、故スティーブ・ジョブズやアップルに似ている。(アスレチックスがシリコンバレーのそばにあるというのも興味深い)

どうしてチームの建て直しがうまくいったと思うかと聞くと、ビーンは必要に迫られての結果だと述べた。ヤンキースやレッドソックスのような資金力のあるチームと同じような選手を狙っていては、アスレチックスは絶対に勝てない。大企業と同じ製品やサービスを提供しようとしていたのでは、中小企業がつぶれてしまうのと一緒である。

もしアスレチックが新しいやり方を試して負けても、失うものはない。期待通りの結果で終わるだけ。勝てば儲け物である。「ある意味、何にでも挑戦できるという状況は強み」だとビーンはいう。

運良く当時のチームには、自由な発想ができる若いスタッフが何人もいたので、彼らにチャンスを与えたのだそうだ。プロ野球経験のない、大学をでたばかりの無名の若者の考えが、スカウトよりも正しいと信じる判断力と決断力。自身は数学が苦手だというビーンは、「そのためにボクはすごく頭のいい人たちを雇うんだ。ボクはそれを信じるだけさ」と笑顔で語った。

今のスポーツ界は、10年前だったらゴールドマンサックスに就職していたであろう、アイビーリーグやビジネススクール出身の人材を採用するようになった。プロアスリートではない優秀な若者が、スポーツに進出するチャンスなのだとビーンは言う。

映画の原作となった同タイトルの本が出版されたのが2003年。もうセイバーメトリクスを取り入れていないメジャーのチームはおそらくないだろう。みんなが同じような評価システムを取り入れている現在の状況では、以前のように資金力のないチームが長期に渡って勝ち続けるのはメジャーリーグでは難しくなっているとビーンは分析する。既に彼は、統計分析が野球ほど進んでいないサッカーに目をつけている。

「マネー・ボール」を書いた著名作家のマイケル・ルイスは、アスレチックスのオフィスに突然やってきて、ビーンたちが何をしているのか知っているから、チームに帯同させろと言ったそうだ。

オークランドの近くに住むルイスがアスレチックスのことを聞きつけなかったら、ビーンが彼の取材を拒否していたら、もしくはルイスがチームに張り付いていた2002年に、アスレチックスがプレーオフに進出していなかったら、果たして野球界はどうなっていたのだろうか。

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2011年11月26日

なぜ子どもを留学させるべきか

(以下はボクが書いた新聞用コラムの訳)

ボクは未だに、20年前に初めてアメリカで英語を話した時のことを覚えている。

ワシントンD.C.に到着したその日、ボクは風邪を引いていたため、ホテルのベッドに寝て両親や弟たちが夕食から戻ってくるのを待っていた。すると突然ハウスキーパーが部屋に入ってきて、ボクに話しかけてきた。

全く彼女の言いたいことが理解できないボクは、恐怖におののき、「ノー・マザー、ノー・マザー!」と知っている単語を並べて、彼女が出て行くまでわめき続けた。

その時ボクは小学三年生だった。父がアメリカの会社に出向になり、家族全員で日本からワシントンの郊外に引っ越したのだ。海外に住み、現地の公立高校に通った当時の二年間は、ボクの人生に最も大きな影響を与えた。英語やアメリカ文化を学べたことも確かに大きいが、振り返ってみると得られたものは単なる知識にとどまらない。

出だしは楽ではなかった。

学校初日、父はボクと弟を送り届けて、すぐに去ってしまった。教室では担任の先生とクラスメートが、理解不能な言語でやり取りをしている。ボクは静かに席に座り、何度も引き出しをチェックするふりをしながら、隠れて涙をぬぐった。

昼にカフェテリアに行くと、当時一年生だった弟がボクを見つけ、「兄ちゃん!」と、今でも忘れられない笑顔を浮かべ、日本語で叫んできた。自分の情けなさが悔しかった。

到底、国語や社会の講義を理解できるはずもないので、当初は英語を母国語としない生徒のためのESLというクラスを主に受講していた。ある日、いつもより早くホームルームに戻ると、生徒たちがスペリングビーのコンテスト(英単語の綴り当て大会)をやっていた。何を思ったか、担任の先生がボクも加わるようにと促してくる。

スペリングビーが何なのかすら分からないボクはパニックに陥り、「やだよー、やだよー」と必死に拒否し、しまいにはクラスの前で泣き始めた。

最初に通った学校には他にも多くの日本人がいたので、彼らとつるむことが多かった。それを面白く思わないアメリカ人の子どもは、英語を話せないボクをからかい、ボクが休み時間にバスケットボールをしたくても、仲間に入れてくれなかった。

運良く家族が引っ越すことになって、ボクも6ヶ月で別の小学校に転校したのだが、そこではスポーツのおかげでいじめを乗り越えることができた。

野茂選手がメジャーリーグに挑戦する前からトルネード投法を駆使していたボクは、変なフォームで早い球を投げるひょろひょろの小学生がいるぞと、地元のリトルリーグではちょっとした話題になった。日本ではやったことのなかったバスケットボールも、ドッジボールで培ったボールさばきが功を奏し、地元のオールスターチームに選ばれた。アジア人に対するステレオタイプに拍車をかけるがごとく、算数ゲームでは他を圧倒した。

すると次第に、クラスメートたちの尊敬を得られるようになり、向こうからボクに近づいてくるようになった。新しい学校には日本人があまりいなかったので、自然とアメリカ人の生徒と遊ぶようになった。ボクの臆病な心は打ち砕かれることになったものの、二人の金髪少女にも恋をした。

人は逆境にぶつかると学習が早いもので、一年が経つとESLを卒業することができた。

父の任期が終わる頃には、日本に帰りたくないと親にせがむほど、アメリカでの生活に順応していた。アメリカの自由と3ヶ月の夏休みが好きだったことに加え、日本に再適応できるかどうか不安だったこともある。

日本に帰国した後も、いつかアメリカの大学に通いたいと夢を抱くようになった。ワシントンでの経験が、外には大きな世界が広がっていることを教えてくれ、自信と適応力を与えてくれた。泣き虫で甘えん坊だった自分を、いくらかは冒険家にしてくれたように思う。

弟、近所の友だちと下校する様子
そして無意識のうちに、我々が当たり前のこととして受け入れている、従来の知識や価値観を疑う力を身につけた。

アメリカに比べると、日本の教育は規律と画一性を重んじる。中学生や高校生は制服を着用し、少年野球や高校野球では、選手が丸刈りを命じられる。ボクの小学校では、ランドセルやロッカーの整理にも成績がつけられた。

外の世界に踏み出して異文化に身を投げ込むと、常識だと思っていたことが普遍的ではないことに気がつくようになる。多様性に寛容になり、自分だけが正しいと決めつけるのではなく、違いを理解しようとするようになるのだ。

子どもの頃に留学したことで、ボクは異文化を学ぶだけでなく、自分自身についても理解を深めることができた。その機会を与えてくれた両親に、ボクは感謝してもしきれない。

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2011年11月25日

感謝と優しさ

一年前の感謝祭は公選弁護士デーブの家で過ごしたと書いたが、今年はデーブの同僚フィルが夕食会に招待してくれた。二年近い付き合いになる裁判所の人たちは、日本から一人でやってきているボクを哀れんで優しくしてくれる。

フィルは、お金も地位もない弱者の権利を守ることに身を注ぐ、公選弁護士の鏡のような存在。保守的なハイデザートでは貴重な、筋金入りのリベラルでもある。

サンバーナディーノ郡公選弁護士のフィル
フィルの娘さん二人の家族もやってきて、フィルが一週間かけて準備したという感謝祭料理を堪能した。アメリカ人は家族の集まりに他人を招くことをいとわない。こっちに住むようになってから、感謝祭やクリスマスになると、必ず誰かが家族パーティーに呼んでくれる。

裁判所に勤めるある女性は、祖父がいつも感謝祭のパーティーにホームレスを招くのだそうだ。どうしておじいさんはそんなことをするのかと聞くと、「いいことだからと教えられてきたからじゃないかな」という。

ディナーテーブルで食事をしながら、感謝祭にちなんで、一人ずつ何に感謝をするのかを発表した。ボクは、「フィルがこんな素敵な夕食に招いてくれて、みなさんにも出会うことができたことに感謝します」と話した。

ボクも、優しさや自分の幸せを見知らぬ他人に分け与えられるような寛容さを持っていたい。


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