(以下はボクが書いた
新聞用コラムの訳)
ボクは未だに、20年前に初めてアメリカで英語を話した時のことを覚えている。
ワシントンD.C.に到着したその日、ボクは風邪を引いていたため、ホテルのベッドに寝て両親や弟たちが夕食から戻ってくるのを待っていた。すると突然ハウスキーパーが部屋に入ってきて、ボクに話しかけてきた。
全く彼女の言いたいことが理解できないボクは、恐怖におののき、「ノー・マザー、ノー・マザー!」と知っている単語を並べて、彼女が出て行くまでわめき続けた。
その時ボクは小学三年生だった。父がアメリカの会社に出向になり、家族全員で日本からワシントンの郊外に引っ越したのだ。海外に住み、現地の公立高校に通った当時の二年間は、ボクの人生に最も大きな影響を与えた。英語やアメリカ文化を学べたことも確かに大きいが、振り返ってみると得られたものは単なる知識にとどまらない。
出だしは楽ではなかった。
学校初日、父はボクと弟を送り届けて、すぐに去ってしまった。教室では担任の先生とクラスメートが、理解不能な言語でやり取りをしている。ボクは静かに席に座り、何度も引き出しをチェックするふりをしながら、隠れて涙をぬぐった。
昼にカフェテリアに行くと、当時一年生だった弟がボクを見つけ、「兄ちゃん!」と、今でも忘れられない笑顔を浮かべ、日本語で叫んできた。自分の情けなさが悔しかった。
到底、国語や社会の講義を理解できるはずもないので、当初は英語を母国語としない生徒のためのESLというクラスを主に受講していた。ある日、いつもより早くホームルームに戻ると、生徒たちがスペリングビーのコンテスト(英単語の綴り当て大会)をやっていた。何を思ったか、担任の先生がボクも加わるようにと促してくる。
スペリングビーが何なのかすら分からないボクはパニックに陥り、「やだよー、やだよー」と必死に拒否し、しまいにはクラスの前で泣き始めた。
最初に通った学校には他にも多くの日本人がいたので、彼らとつるむことが多かった。それを面白く思わないアメリカ人の子どもは、英語を話せないボクをからかい、ボクが休み時間にバスケットボールをしたくても、仲間に入れてくれなかった。
運良く家族が引っ越すことになって、ボクも6ヶ月で別の小学校に転校したのだが、そこではスポーツのおかげでいじめを乗り越えることができた。
野茂選手がメジャーリーグに挑戦する前からトルネード投法を駆使していたボクは、変なフォームで早い球を投げるひょろひょろの小学生がいるぞと、地元のリトルリーグではちょっとした話題になった。日本ではやったことのなかったバスケットボールも、ドッジボールで培ったボールさばきが功を奏し、地元のオールスターチームに選ばれた。アジア人に対するステレオタイプに拍車をかけるがごとく、算数ゲームでは他を圧倒した。
すると次第に、クラスメートたちの尊敬を得られるようになり、向こうからボクに近づいてくるようになった。新しい学校には日本人があまりいなかったので、自然とアメリカ人の生徒と遊ぶようになった。ボクの臆病な心は打ち砕かれることになったものの、二人の金髪少女にも恋をした。
人は逆境にぶつかると学習が早いもので、一年が経つとESLを卒業することができた。
父の任期が終わる頃には、日本に帰りたくないと親にせがむほど、アメリカでの生活に順応していた。アメリカの自由と3ヶ月の夏休みが好きだったことに加え、日本に再適応できるかどうか不安だったこともある。
日本に帰国した後も、いつかアメリカの大学に通いたいと夢を抱くようになった。ワシントンでの経験が、外には大きな世界が広がっていることを教えてくれ、自信と適応力を与えてくれた。泣き虫で甘えん坊だった自分を、いくらかは冒険家にしてくれたように思う。
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弟、近所の友だちと下校する様子 |
そして無意識のうちに、我々が当たり前のこととして受け入れている、従来の知識や価値観を疑う力を身につけた。
アメリカに比べると、日本の教育は規律と画一性を重んじる。中学生や高校生は制服を着用し、少年野球や高校野球では、選手が丸刈りを命じられる。ボクの小学校では、ランドセルやロッカーの整理にも成績がつけられた。
外の世界に踏み出して異文化に身を投げ込むと、常識だと思っていたことが普遍的ではないことに気がつくようになる。多様性に寛容になり、自分だけが正しいと決めつけるのではなく、違いを理解しようとするようになるのだ。
子どもの頃に留学したことで、ボクは異文化を学ぶだけでなく、自分自身についても理解を深めることができた。その機会を与えてくれた両親に、ボクは感謝してもしきれない。